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2010年6月

2010年6月13日 (日)

iPadのどこがいいのか

iPadは何故みんなが注目するのでしょうか。iPadとは一体何者でしょうか。

テレビでは、PCとスマートフォンの中間がiPadだと紹介していました。PCとスマートフォンの両方の機能を併せ持っているということでしょうでしょうか。ちょっと納得できません。

以前、テレビで、スマートフォンは一言で言うと、携帯電話とPCの中間だと紹介されていました。その時は納得しました。確かに携帯電話のように電話できるし、メールできる。またPCのようにOSの上にいろんなアプリケーションを走らせ、EXCELやWORDが使えたり、インターネットも使える。

だから、携帯電話とPCの両方の機能を合わせ持っていて、中間に位置しつつ両方にちゃんと手が届いています。

しかし、iPadがスマートフォンとPCの中間と言われても納得できません。大きさは丁度両者の中間かもしれませんが、機能としてはどうでしょう。PCと同じようにOSの上に様々なアプリケーションを走らせることは可能なので、PCの機能は持っているようです。でも、電話の機能はない。スマートフォンの大切な機能の1つ、携帯電話機能はないわけですから、両者の中間とは言えないと思います。

iPadとは何かを説明する方法としては適当ではない。では、どう言えばiPadの特徴をちゃんと捉えた表現になるのでしょう。ちょっと考えてみました。

私が勝手に捉えているiPadの捉え方は、「iPadは、豊富なアプリケーションの広がりが期待できる、タッチパネル型のモバイルPCである。直感的な情報端末として、生活のあらゆる場面に浸透する可能性がある。」です。

この言葉に含まれている要素は2つあります。

まず、タッチパネルであるということ。これにより、詳しく見たい個所は直接そこに触れたり、次の動作は直接コマンドメニューに触れたりすることで、デバイス(iPad)への動作指示がとってもユーザーフレンドリーです。PCの操作で、画面を見ながら次の動作を打ち込みたいとき、キーボード入力では、目的のキーを探す必要があり、マウス操作では、マウス操作をポインタに同期させる必要があるので、慣れていない人はいらいらするでしょう。

iPadでは、そんないらいらするキーやマウスを介したりせず、目で見たその箇所に直接手を持って行くことができます。普段の生活の動作をそのまま持ち込めるので、直感的であると言えます。

二つ目の要素は、豊富なアプリケーションの広がりと生活への浸透です。iPhoneやグーグル携帯も同じですが、ユーザーが自由にかつ簡単にアプリケーションを開発することができて、それを皆で使うことができる。だから、ユーザーが必要と感じているあらゆる場面で、このデバイスを活躍させることができ、或いは活躍できる機能を付加させることができるので、無限の可能性を秘めているということです。

今、iPad購入を検討している人は、この二つの要素で検討すると結論を出しやすいのではないでしょうか。

そこで、私の判断です。まず一つ目の要素であるタッチパネル。私は、画面上の選択肢から次の動作をデバイスに指示するより、文章やデータを入力することが多いので、キーボードが必須です。キーボードはキーの深度が打ちやすさの決め手ですから、タッチパネルキーボードは駄目です。

次に、豊富なアプリケーション。私は、仕事で使うことが多いので、あらゆる生活に浸透するアプリケーションの広がりは必要ありません。

というわけで、遊びならともかく、私はiPadには魅力を感じません。とはいうものの、やはりiPadは広く普及すると思います。いままでキーボードが苦手だったり、従来のPCの使用目的と関わりなかった人たちが大勢いて、その人たちが使うようになるからです。

デジタル・デバイド(デジタル機器が使えない人が使える人との間で格差が生じること)の解消に役立つかもしれません。

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2010年6月 5日 (土)

どうして銀行は中小企業向にお金を貸してくれないのか

日経新聞によれば、日本の銀行の中小企業向け融資は減少しているそうです。

記事によれば、減少した原因として、景気回復が遅いので設備投資などの資金需要がないこと、中小企業向け融資は焦げ付くリスクが高いと見ている銀行が慎重になっていることのふたつを揚げています。

もともと資金需要がないなら、お金を借りる必要がないから、銀行が慎重になっているか否かは問題ではありません。しかし二つ目の原因については、ちょっと気になります。それはろくに十分な審査をせずに、簡単に借入の申し出を断っている可能性があるからです。そこをもう少し詳しく見るために、銀行の中小企業向け融資の取り扱い方を見てみましょう。

大手銀行では、金額の小さい中小企業向け融資は、効率を高めるため、機械的に審査するスコアリングシートを使った方法に切り替わってきています。全部とは言いませんが、結構多くの案件はこの方法で行われていると思われます。

大口の融資は一件ごとに丁寧に審査しても採算がとれるが、小額案件はそうはいきません。次から次へとてきぱきと審査をこなさないと、審査のための人件費がかかってしまうのですぐ採算を割ってしまいます。例えば利鞘が0.5%で、10億円の融資なら一件で年間5百万円もうかりますが、中小企業向けの1千万円程度の融資では、5万円しか儲かりません。利鞘が同じなら、審査には10億円の案件の100分の1の時間しかかけられないのです。

スコアリングシートによる方法とは、財務の内容などの決められた審査項目を手順に従って次々と機械的に判定していき、その総合得点が合格ラインに達しているか否かで貸す貸さないを判断し、速ければ1日で審査を終えて申込人に結果をお知らせできるものです。ちょっと教えれば誰にでもできるので人件費も安い。

この方法が導入された当初は、「5千万円以下の融資の申し込みに対しては、24時間以内に審査結果をお知らせすることができます。」というPR文句でした。速けりゃいいってもんじゃありません。速いサービスを隠れ蓑にして、銀行は丁寧な審査を避けてきたのです。いや善意に解釈すれば、サービスの効率化を図って、中小企業向け融資を増やし、お金がちゃんと回るように工夫したのです。

しかし、このスコアリングシートを使った審査が、当初の導入目的に反して、逆に銀行の中小企業向け融資を不活発にしていると、私は思います。なぜか、それは、機械的な審査によって本当にお金が必要な中小企業にお金が回らなくなってしまったからです。

その仕組みはこうです。スコアリングでの判定項目はどうしても数字で具体的に表現できる項目に偏りがちです。例えば財務内容とか、キャッシュフローの状況など。それらは主として、現在の収益力とか安定性とか支払い能力とかを判定するのに役立ちます。しかし、この項目での合計得点と借入必要度合いは反比例しますよね。この得点が高いほど、収益性、安定性、支払い能力が高くお金を借りる必要がないからです。

ある種の設備投資を除いて、資金需要が旺盛な企業はいつもこの得点が低いはずです。だから、お金を借りたい人は、銀行に行ってもスコアが合格点に達しないので融資をうけられず、逆に銀行がお金を貸したい人は、借りる必要のない人なので銀行には行かない。結局、この方法では、銀行と借り手の需要のミスマッチは解決できず、中小企業向け融資がどんどん減少する。仕組み上当然のことと言えるのではないでしょうか。これが「どうして銀行は中小企業にお金を貸してくれないのか」の理由です。

銀行も導入当初に、このような矛盾をある程度想定していたと思います。だから、財務指標だけではなく、定性面の審査項目をとりまぜてその辺のバランスをとろうとしたでしょう。たとえば、経営者の資質や業界動向や環境分析などです。しかし、一番大切なのは、資金をどのように使うのか、その使い方は正しいか、ちゃんと投下したお金以上の果実が得られるのか、それを実現する企業の組織力やマネジメント力はあるかなどをしっかり見極めることです。これがあらゆる融資に共通する審査の要諦です。

でも残念なことに、この項目はスコアリングで判定できません。この辺の矛盾がどうしても解消しないので、銀行は相当悩んでいると思います。つまり、小額融資は審査を効率よくしなければならない。しかし、効率よくすると真の審査ができない。

日本の企業の大半は中小企業です。中小企業に生きるお金が回って初めて日本経済も本当の回復の姿を見せると思います。銀行は、特に大手銀行は、この事を銘記し、効率より1つ1つの融資案件の目的と意義にもっと注意を払ってほしいものです。

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2010年6月 4日 (金)

鳩山首相辞任と指導力

鳩山総理大臣が辞任の意思を表明しました。みんなでやめろやめろと言って、或いは言わないまでもやめるように徹底的に追いこんでおいて、実際に辞めたら、残念だと言いだす。基地縮小を願う沖縄県人は、辞めて当然だみたいなこと言いますが、現実には日米合意の方向へ流されはしたものの、沖縄の負担を減らしたいと思っていた鳩山首相が辞めたら、むしろ困るのは彼らでなないでしょうか。

なんだか皆メディアの仕向ける方法に流されて冷静な判断力を失っているような気がします。こういう人たちは冷静になって、起ころうとしていることをいろんな角度から見直して、今本当に必要な事が何であるかををきちんと見極める必要があると思います。

鳩山政権が今取り組んでいるのは、普天間基地問題だけではありません。6月には産業構造ビジョンを打ち出そうと、1月から産業構造審議会で検討が進められているし、財政戦略・中期財政フレームの作成も進んでいます。また、1年先送りした中期防衛力整備計画や、事業仕分け等もこれらが反映されるかどうかはこれからの話です。こういったことが全て中途半端なまま、彼を政権から引きずり下ろすと、これらの政策は一体どうなるのでしょうか。

政治とは決めることです。決めないと、誰も何も始めない。だからまず決めることが必要で、それが政治の役割です。このように決めかかっていたが決まらないままだらだらと時間が過ぎていくことを政治の機能不全といいます。よく政治不信だとか政治の信頼を取り戻すと言われますが、それは機能してはじめて行われる評価の問題です。政治が機能すると、それが信頼できる方法で機能しているのか、そうでないのかという具合です。だからとにかく機能していなければなりません。そういう意味で早く決める機能を取り戻してほしいものです。

では、機能はどうすれば取り戻すことができるのでしょうか。鳩山総理は指導力に欠けると言われました。指導力があれば決める機能を取り戻すことができるのでしょうか。講談社日本語大辞典によれば、指導とは正しいと信じる目的・方向に教え導くこととあります。

でも、指導したい相手が別の目的・方向を信じて疑うことがない場合は、教え導くことができません。その目的・方向が間違っているよと諭す余地があるなら、教え導くことも可能でしょうけど、それは先生が生徒に諭すような関係であって、政治の世界で、双方とも成熟した大人でかつ明確な政治理念を持っているような場合はそんなこと無理でしょう。相手の信念を曲げさせるという行為になるわけですから、それは無理です。皆投票してくれた選挙民の意思を代表してきているわけだからなおさらです。

そうなると、初めから同じ理念や信念を持っている人を集めてくるしかありません。それは選挙です。選挙で同じ党から当選する議員を増やして、あとは数に頼んで強行採決するしか決める方法がないのです。よく、強行採決をすると反対する人が居て、その反対は民意を得る場合が多いけど、イメージとして良くないので、民意が得られるだけです。強行採決は、自然のなりゆきなのです。

それを嫌うなら、あとは独裁者の出現を待つしかありません。実際、この閉塞感が全体に蔓延すると、独裁者の出現を許すことになりかねないと僕は思っています。ヒトラーも民主主義の手順を踏んで現れました。

さて、議論の歯車を1つ狂わせたら、独裁者の出現にまで進んでしまいました。ここで、歯車を戻しましょう。どの歯車を戻せばいいでしょうか。それは、指導力です。指導力という言葉を使い始めたので、あらぬ方向へスライスしてしまいました。

僕は首相に指導力を発揮してもらうのではなく、議員一人一人が選挙区の利益代表であるとの考えを捨て、大義のために工夫するという姿勢を大切にすべきだと思います。議員が選挙区の利益代表なら、議案は毎回直接選挙で決めればよい。今は電子的な方法がいくらでもあるから、技術的には可能でしょう。

でも、議員は選挙民から自分たちの利益を守ってほしいと頼まれただけではなく、議案を自分の考え方で検討することを託されたのです。環境が変わったり、条件が変わったりしたらそれを踏まえつつ、その段階で主体的によりよい方法を検討して見出していくよう託されたのです。

場合によっては、地元の利益が犠牲になっても、それが日本全体のためになるなら、当初の考え方を捨てる方がいい場合だってあるでしょう。その上で、それをバランスさせる何かを求める方法もあるはずです。民主主義は利益分配法則を議論する場ではありません。特に国会議員は国家によいことは何かを考える場です。

前回選挙で、横浜駅に「私はブレない」と書いたポスターを見かけました。皆が絶対ブレないぞと意気込むと、上に書いたように数に頼むしかなくなります。議員は国家によい事を見出すためには少しずつブレていく必要があります。悪い言葉でいうと「妥協する」ということになります。しかし、よい言葉でいうと「柔軟に考える」ということになります。

まとめると、政治が「決める」という本来の機能を取り戻すためには、議員が選挙区の利益代表に落ちぶれず、国家のあり姿を議論できる柔軟な協力姿勢を持つことが求められているのではないでしょうか。

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2010年6月 1日 (火)

社民党の政権離脱は正しいか

社民党の政権離脱は、彼らの得にはならないと思います。このことを社民党の前身である旧社会党に遡って考えてみます。

1994年、村山首相はそれまでの非武装中立という社会党の政策方針を修正し、自衛隊の存在を認めて日米安保を堅持する現実路線への転換を表明しました。それが原因で、党は退潮をきたし、どんどん議席を減らしてきたと言われています。その後は、土井マドンナ委員長のもとに集まった人たちも居て一時ブームの様相を呈したこともありましたが、衰退の流れは変わりませんでした。

でもその理由が、非武装中立を放棄して信念を曲げたからだというと、必ずしもそうではないような気がします。もしそうなら2006年の社民党宣言後は議席を回復するなどの効果が表れるはずなのに、そうはなっていないからです。

2006年の宣言では、自衛隊違憲論と基地縮小・排除論に回帰して元の旧社会党方針に戻しました。それでも、退潮に歯止めがかからなかったということは、当時の村山首相の方針転換が、社会党の党勢退潮の原因であったとは言えないということの証左になります。理由は他にあるということじゃないでしょうか。

だから今回も、「閣議決定への署名は、社民党の信念を再び曲げたと受け取られて社民党支持離れを加速するのでないか。」との懸念は当たりません。他にある理由をしっかり認識して、それを前提にした戦略を立て直さないと、だめです。

では、その理由はなんだったのでしょうか。

一つの解答は、旧社会党の政策方針支持層が減少している以上に選挙制度の変更が議席喪失を加速したということだと思います。

今の選挙制度では、主軸に対抗する手段として明確な対立軸は必要ありません。例えば、再軍備自主防衛に対する非武装中立というように、ゼロか百という明確な対立軸でなくても、支持層を二分するような少しの政策相違点があればいい。小選挙区制では、一番支持が多い主張と二番目に支持が多い主張の一騎打ちになる傾向があります。だから、三番目以降の主張は、たとえ二番目との間で得票率がさほど開いてなくても、一騎討ちに参加することすらできません。得票率と当選とは違うのです。そのことは今回の英国の選挙でも証明されました。だから、対立軸を明確にするより、支持の多さで二番手につけていることの方が大切なのです。もっと言うならば、二番手につけるためには、むしろ一番手との対立軸が不明確なくらい違いが小さい方が、有権者の選択を終盤まで迷わることができるので、有利と言えるかもしれません。

社民党(旧社会党)の場合はどうでしょうか。冷戦時代であれば、自衛隊違憲、非武装中立は明確な対立軸であるとともに、世論を二分できるインパクトを持ちえたのかもしれません。しかし、冷戦後は、東西の大きな対立がなくなった代わりに、世界のあちこちで、宗教がらみや民族がらみ小競合いや地域紛争が起きるようになり、平和な日本も、武力衝突の危険を身近に感じるようになりました。実際に2001年には戦後初の武力衝突が北朝鮮(工作船)との間で発生しました。そんな状況の中で、非武装中立主張層は二番手世論から三番手世論以降に劣後するようになってきたのではないでしょうか。

それでも、三番手なら三番手なりの得票率に応じた議席を確保できていいはずです。しかし、現実にはそれ以上に急速に議席を失っていった。この間に選挙制度が三番手以降に不利な小選挙区制を取り入れたものになっていったからです。そのため、前述のように、一定の得票がありながら、議席獲得の一騎打ちに参加できなかったわけです。

衆議院選挙に小選挙区比例代表制が取り入れられたのが、村山発言と同じ1994年だったというのが、象徴的です。

では、社民党はどうすれば良いのか。解答は、選挙制度を中選挙区制に変更して、三番手以降なりの得票率に応じた議席を確保できるようにするか、それが駄目なら連立政権にしがみついて、閣僚を送り込み、機会を捉えて党の政策方針を実際の行政に少しでも反映させる可能性を残しておく道を選ぶのが得策ではないでしょうか。確かにブレずに主義主張を貫き通すのはかっこいい。しかし、それでは物事は進みません。政治不信は、何も決められず、その結果何も進まないことへ不満からきているのであって、福島党首の言うようなブレることへの不信ではないと考えます。

まとめると、社民党は、村山発言まで時計の針を戻して、ブレることへの不信を恐れずに非武装中立論と基地撤廃論を封印し、現政権内で政策立案に反映できるものを主張する手段として、なりふりかまわず政権に残ることを優先すべきであったと思います。

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