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2010年10月

2010年10月21日 (木)

ドラッカー「マネジメント」サブノート、第1章

1.   マネジメントの誕生

  1900年頃は、主な社会活動を担う基本単位は家族であり、組織は極めて少なかったが、次第に組織に雇われる生き方が中心になり、組織を機能させるためのマネジメントが必要になってきた。

  マネジメントは起業、大学、病院、政府機関など近代組織の特有のものである。また、マネジメントは職能であり、専門領域であり、果たすべき務めである。

  マネジメントは公的機関など様々な組織で行われるが、以下の理由から企業のマネジメントを中心テーマに据える。

a.  近代的な組織のさきがけとなったのが企業だから。

b.  「収益性」という尺度を備えているから。

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2010年10月17日 (日)

ドラッカーの「マネジメント」のサブノートを作る

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が爆発的に売れましたが、その元々の「マネジメント」には何が書いてあるのでしょうか。翻訳家の有賀裕子氏が1973年初版の「Management Tasks, Responsibilities, Practicese」を翻訳し「マネジメント 務め、責任、実践」全4巻として出しておられますので、これをちょっと丹念に読んでサブノートを作ってみようと思いました。

あまり意味のある作業ではないかもしれませんが、高校野球の女子マネージャーが読んでしまうくらいですから、大学にも行って彼女より少しは勉強しているとの自負がある私としては、これくらいやらねばなるまいと意地になっているわけです。

私が自分のために作るサブノートですから、言葉づかいも私自身の言葉に変わっている個所があり、解釈も私が読んだときに解釈した内容になっていて、本来の忠実な要約ではありませんので、その点はが必要です。

最初に本書の「はじめに」から始めます。

0.   はじめに

  権威として表現される体制や組織を批判してこれに反逆し、自分の思いのままに動くというのが当代の流行だ。しかし、本書はこれに反し、責任と成果を重視している。

  その組織の成果をあげさせるのは、経営者とマネジメントの仕事である。本書では、マネジメントの技能、ツール、手法に触れながらマネジメントの務めに焦点を当てる。

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2010年10月11日 (月)

新しい方法を見出しても、以前の良い方法を忘れないように。科学的管理法は今も生きる。

何かをする時に、今までとは違った良い方法を思いついて、その方法を使うようになったら、今までの方法は忘れてしまうものですね。「何かをする」とは、仕事でも、普段の生活でも何でも当てはまります。

もちろん、従来の方法に比べて、より良い方法として思いついたのだから、より悪い方法にいつまでも固執している必要は全くないのです。今回思いついた良い方法に代わる、さらに良い方法を将来思いついたら、今回の方法も捨てられる運命です。

しかし、よく考えると、それは従来の方法と今回思いついた方法が完全に代替可能な場合だけで、少しでも補完的要素が両者間にあるなら、それは捨てるにはもったいないでしょう。

「完全に代替可能」とは、従来の方法で実現させていた事が、今回思いついた方法でも全く同じ事が実現できる場合です。

それに対して、補完的な関係とはどういうことでしょう。わかりやすいのは、従来の方法で実現していた事の一部しか、新しい方法では実現できない場合です。その場合は、従来の方法と新しい方法の両方を使うことになります。

例えば、木材を目的の形に切る場合、鋸でぎ~こぎ~こ切る従来の方法に比べ、切り始めてから半分まで行った時に向きを変えて反対側から切った方が速く切ることができる事を思いついたとします。

鋸で切るという従来の方法に、途中から向きを変えるという別の方法を合わせてやらないと木材を切ることはできないから、両者は相互に補完的です。

この例は、従来の方法を捨てることができない、あまりにも歴然とした例なので、議論の余地は全くありません。

しかし、気がつかないけど、互いに補完的な方法を、従来の古い方法だからといって安易に捨ててしまっていることが他にないでしょうか。

有名な人事マネジメントの古典、「科学的管理法」を読みました。有賀裕子さんによる新しい翻訳が出版されたのです。訳者がまえがきで、「科学的管理法には、このタイトルが原因なのか、何かと誤解がつきまとう。その最たるものが『人間を機械のごとく扱っている』というものでだろう。」と書いているように、1911年にこの本が書かれて以降、これがいかにも偏った理論であるかのような評価のもと、修正理論が次から次と発表されました。

例えば、テイラーには全体的管理の視点が欠けていたとして、管理過程論を打ち出したファヨール。メイヨーやレスリスバーガーは、人間を機械として扱っているところがこの理論の限界であるとかなんとかいって、人間関係論を打ち出しました。

その人間関係論についても、良好な人間関係が仕事の効率性を保証するものではないとの指摘にさらされています。

これらは経営管理の研究の分野ですが、では、一番最近の理論が一番優れた方法なのかというと、必ずしもそうではありません。

テイラーは、あまりにも非効率で労使ともに不幸になっている状況を見るに見かねて、なんとかその状況を救いたいとの思いで科学的管理法を主張しました。そういう状況は、現代のわれわれでも時々直面するものです。

そんな状況に対しては、メイヨーやファヨールの管理法ではなく、ましてやマズローの欲求の最終段階を議論することでもない。まずは労使双方がより合理的な方法を発見し、それを上司のマネッジのもとで実現してみる必要があります。

現代の企業経営は、実にいろんな問題を複合的にかかえています。また、企業の成長段階によりそれぞれが直面している問題も様々でしょう。企業ごとに状況が異なるし、企業内でも異なる状況を同時に抱えていることもあります。

我々は、これらの理論の古い新しいを単純な切り口で評価することなく、その全部を複合的かつ総合的に活用していく術を学ばなければりません。

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2010年10月 4日 (月)

デフレには金融緩和というが、もっと直に手を講じていかないと。

日本経済がバブルの崩壊とともにデフレに見舞われてから随分と年月が経ちます。その間にも、景気はある程度の幅で良くなったり悪くなったりして循環していますが、政策当局は公共投資など財政出動で悪い局面の需給ギャップを埋め合せるだけ。だから、それがげ落ちると再び元の木阿弥に戻り、本格的な景気の回復はやって来ません。

そうこうしているうちに、米国発の金融危機で世界中の景気が後退し、最近では、欧米経済が、日本型のデフレに突入しつつあるという指摘も聞かれるようになりました。日本のようにはならないぞ、我々の経済政策はそんなに稚拙ではないぞ、と言いながら結局はその道をまっしぐら。なかなか思うようにはならないものです。

そして、日本型デフレに陥りつつある中で、その対策として検討されているのが金利引き下げと流動性注入、資本注入や国有化による金融機関の体力回復などです。対策も結局日本が打ってきたものと似ているようです。

それらの政策に効果が期待できるのでしょうか。それは、今このような状態になっている日本経済の状況を見れば明らか。特に、これでもかこれでもかと、市中に流動性を流し込むだけの策はあまり意味がないように思います。

市中に過剰なまでに流動性を流し込もうとする政策の拠り所は、「デフレ下で名目金利がほとんどゼロでも、実質金利が高いために投資意欲を削いでいる。だからジャブジャブ流動性を注入し、実質的にもほとんどただで資金調達できるような環境にしてやらないと回復しない。」ということだと思います。でもこの理屈はどうしても直観的に受け入れられません。「お金の供給はそれ自らの需要を創造する」とでも?

デフレはインフレよりも怖いと言われているのは、デフレでは金融政策の自由度が奪われるからではないでしょうか。もはや自由度が奪われてしまった金融政策に頼っても効果はないと諦めた方がいいと思います。

経済が元通り成長軌道にのっかるためには、市中に流し込まれたお金が使われるように策を講じる必要があります。つまりマクロ金融政策の、その向こうにあるものに直接手をつけていなかいと駄目なのではないでしょうか。

そこで、お金が使われるという道筋に沿って、2つの事が必要です。

1つは、銀行が正しくお金が使われる使い道をよく吟味して、そこへお金を貸すリスクをとることです。前にも書きましたが、銀行、特にかつての大手都市銀行がスコアリングシートによる中小企業向け小口融資の審査手法を導入してより以降、銀行融資は財務諸表に頼った審査に流れてしまいました。

財務諸表は、借り手が進めようとしている事業の将来の果実の確かさや成長の可能性を占うには十分な情報を提供してくれません。そんな事言うと、会計士の方々に「いや、そんな事はない。財務諸表はしっかり分析すれば、その企業の将来も見積もることができる。見積もることができないのは、分析能力がないからだ。」と言われそうですね。

でも、経営者が投資資金が必要となる新たな事業を計画するときは、従来の体質から脱却して新しいことをやってみようというチャレンジである場合が多いということを考えると、やっぱり財務諸表だけでは不十分です。従来の延長線上にないからです。

財務諸表は、過去と今を表現しているに過ぎません。だからそれを見ても今の返済能力しかわからないのです。結局、企業がそのお金を必要としているかどうかはおかまいなしに、今返済できる企業に融資を押しつけようとうのが、スコアリングシートによる融資なのです。今返済できる企業はお金を必要としない企業ですよね。

銀行には、新たなチャレンジの真偽を正しく見極める審査の目を取り戻してほしいものです。ただ、いくら確かな審査の目とリスクをとる覚悟ができていても、シャレンジする借り手がでてこなければ役に立ちません。

そこで、必要なことの二つ目として、お金を使って儲けようというチャレンジを邪魔せずに大切にすることを揚げましょう。これにより、お金に対する需要を喚起するのです。

今は、銀行がお金を貸そうとしても、借りようとする人が少なく、仕方ないから銀行は国債を買ったりして本来設備投資の原資となるべきお金が国に流れ、国がカンフル剤にしかならない財政出動用の資金として使います。しかも、事業仕分けによって、資金需要のあるところに金を流すのではなく、要不要の真面目な吟味もないままばらまかれています。

これでは、お金の使い道を間違えていると言わざるを得ません。

では、民間のチャレンジを邪魔せず、チャレンジャーに正しくお金を使ってもらうにはどうすればいいでしょうか。それにはいろいろあると思いますが、結構重要な事のひとつに、将来への透明度確保があります。将来がある程度予測可能であることが透明度確保につながります。予測可能であれば、その前提で今の投資が将来どのような果実を生むかもある程度予測がつくでしょう。

せっかく投資しても、途中で法律が変わったり経済政策が変更されたりして、計画が狂ってしまいそうだとなると、なかなかそのリスクを負おうとはしませんよね。政権がくるくる変わり、ある時は規制緩和だ、あるときはいややっぱり郵政改革法案だ、高速道路は¥1,000だか¥2,000だか、一体どっちだ?・・・と。皆一生懸命良くしようと頑張っているのかもしれませんが、くるくり変わるより、何もしないで何も変えない方が投資家としては予測しやすいのです。

それは将来が明るいか暗いかとは関係ありません。暗いなら暗いなりに、暗いという予測がつくなら、その範囲でチャレンジしようという人が現れるはずだからです。必要なことは予測不可能なことを起こさないということです。なんとか良くしようとして、いろんな事を始めたり変えたいすればするほど、不透明になってしまいます。

この要素は、軽量化できないので経済学では取り入れられていませんが、結構大きなインパクトではないでしょうか。

かの有名なケインズは、その著書「雇用・利子および貨幣の一般理論」の最後に、「結局、経済を成長させるものは、投資家の根拠のない自信だ。」と書いたそうです。膨大な議論の末に、結局・・・・と言われてしまうと、みもふたもないのですが、ある意味では真実かもしれません。

ただ、「根拠のない」というところに異議があります。上記のように、投資家は予測がつく環境の中で、投資がどういう結果を生むかを真剣に考えるわけなので、根拠を持っていないわけではないはずですから。

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