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2010年11月

2010年11月 7日 (日)

ドラッカー「マネジメント」サブノート、第3章

3.   新たなる挑戦

(1)   基礎分野における新しい知識の必要性

  マネジメント・ブームは精緻化、追加、修正といった作用を果たしたが、創造の役割は果たさなかった。ブームの土台となった知識だけではもはや十分ではない。

  従来のアプローチは、生産要素の労働に焦点を当てたが、土地、労働、資本の3つの要素全てを結びつけて生産性最大化するプロセスを生み出すことが重要。

  また、マネジメントを活性化させるには、経済学上の生産要素の活用のみならず、人間の活力や熱意が重要で、それを生み出して方向付けを行うのが、マネジメントの務めだ。

(2)   分権制を超えて

  分権制は事業の進め方が決まっている場合に最適であるが、業務革新を進める組織には最適ではない。

  新たなモデルが必要だ。

(3)   人材マネジメントからリーダーシップの発揮へ

  雇用の繰り返しや、労働環境などの人材マネジメントだけでは十分ではない。

  人材を資源や機会として捉え、管理するより率いる、統制するより指示を出す、リーダーシップを発揮しなければならない。

(4)   知識と知識労働者

  テイラーの功績により、肉体労働者の生産性は研究され理解するところとなった。

  しかし、これからは知識の生産性の向上が大切だ。産業技術者・知識労働者の生産性が何かについては未だ解答がないが、これにより仕事の仕組みや組織の在り方などが根本から変わることは確かだ。

(5)   国・文化や個人の精神とマネジメントのかかわり

  企業マネジメントには国際性が求められ、国や国民に特有の文化的伝統を活かしたマネジメントを学ばなければならない。

  また、個人のニーズ、願い、可能性等に合った組織づくりをするためにマネジメントを向上させる必要性が高まるだろう。

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2010年11月 3日 (水)

北方領土の4島返還要求の根拠はなんでしょうか。

メドベージェフ大統領の国後島訪問を受けて、河野駐ロ大使が一時帰国するなど、尖閣諸島問題に引き続き、北方4島にかかわる領土問題でいろいろな動きがありました。尖閣諸島での中国漁船衝突問題では、弱腰だった民主党政権が、大統領の国後島訪問では、すぐに目に見える対応をとったのは、尖閣諸島問題での批判を受けて少し反省したからでしょうか。

しかし、これについてはちょっと無理があるような気がします。まず、対応が尖閣諸島での中国の反応のように少々子供じみていること。

それから、そもそも日本側の4島要求に歴史上の正当性があるがどうか私にはよくわかりません。そこで調べてみました。

もともと、日本とロシアの間で最初に国境が定められたのは、1855年の通好条約に遡るようです。このときは、国境が択捉島と得撫島の間に引かれました。その後、1874年の樺太千島交換条約で、樺太全島をロシア領とする代わりに千島列島が日本の領土となりました。

日露戦争後のポーツマス講和条約では、樺太の南半分(北緯50度以南)が日本の領土となりましたから、この時点で千島列島の全部と樺太の半分が日本の領土であったわけです。

しかし、第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和条約では、樺太も千島列島も放棄し、ときの国会では政府が、放棄した千島列島には国後も択捉も含まれていると説明しています。

その後、1956年に鳩山一郎政権がソ連と署名した共同宣言に、平和条約を条件として、歯舞と色丹を日本に引き渡すと書いてあります。

さて、この一連の事実関係は、前後に明確な連続関係があり、予断を挟む余地はほとんどないように見えます。にもかかわらず、一体いつ、そして何を根拠に「4島返還~要求」が出てきたのでしょう。

確かに、第二次世界大戦で、日本が無条件降伏した後にソ連が千島列島に侵攻し、1945年の93日に歯舞に至る全島を占領したことは、ずるい、卑怯としか言いようがありません。しかも、92日には、戦艦ミズーリ甲板で行われた降伏文書の調印式にはソ連の代表参加していたというではありませんか。一般に、ソ連や中国等共産主義国は「うそつき」です。

4島要求の根拠があるとしたら、せいぜいこの理不尽なソ連の千島侵攻かもしれません。しかし、それとてその後平和条約や共同宣言の前には説得力を持ちません。平和条約やら共同宣言はその事実をも踏まえて、吸収した結果なのでしょうから。

以上のとおり、北方領土問題と尖閣諸島問題は、その歴史歴背景も主張根拠も全く異なります。

民主党政権は、尖閣諸島問題では、しっかりした主張根拠があるにもかかわらず、それを主張せず、一方の北方領土問題では主張根拠が曖昧であるにもかかわらず強気に出ているという、実にへんてこな外交を展開していると思います。

北方4島を取り返すには、経済でも軍事でもどんな形にせよ、力を蓄え、その力によって再び日本の領土とする旨の条約を認めさせるほかなさそうです。

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2010年11月 2日 (火)

ドラッカー「マネジメント」サブノート、第2章

第2章 マネジメント・ブームとその教訓

(1)   マネジメント・ブームの到来

  第二次世界大戦中に米国のメーカーが勢いを増したことがきっかけとなり、実践的活動、専門領域、社会、経済、倫理に関するテーマとしてマネジメントが認知された。

  英国では、戦後初の労働党政権が、経済立て直しの為にマネジメントを利用した。

  戦後、欧州復興計画にマネジメントが活用された。

(2)   発展途上国でのマネジメント

  マネジメント・ブームは先進国において以上に発展途上国で影響を与えた。

経済学では、発展は貯蓄と投資によって成されると考えられたが、実際にはそれだけでは不十分で、マネジメントにより経済・社会の発展がもたらされた。

(3)   マネジメント・ブームの終焉

  1967年の「新しい産業国家」(ガルブレス)と1968年の「アメリカの挑戦」(シュレベール)に対して、「楽観的すぎる」との見方が広がり始め、ブーム終焉の兆しが現れた。

  1971年のドル危機がきっかけの一つとなり、ペン・セントラル鉄道、ロッキード、ロールスロイス等の苦境が専門的経営者のイメージを崩し、蓄積された知識が時代遅れとなった。

(4)   教訓、専門家集団を超えて、

  マネジメントは、洋の東西を問わず、組織の使命を考えて目標を定め、達成すべき成果を見据えて経営資源を手配するという共通の務めを果たす普遍的な職能であるという理解が進んだ。

  マネジメントの本質は知の探究ではなく実践にある。重要なのは技能や手法等の知識ではなく、成果である。

(5)   マネジメントの起源と歴史をめぐる覚え書き

  ジャン=バティスト・セイ(17671832)が企業家を研究した。

  アンリ・ド・サン=シモン(17601825)は組織の出現を強く予見した。

  アレクサンダー・ハミルトン(米17571804)「製造業に関する報告書」で組織協調。

  ロバート・オーエン(英17711858)自身の繊維工場での取り組み。

  アルフレッド・マーシャル(18421924)が、マネジメントを生産要素の1つに数えた。

  ヘンリー・タウン(米18441924)マネジメントの仕事と成果の関係に問題意識。

  ゲオルグ・ジーメンス(独18391901)大規模組織での経営陣の役割を検討。

  渋沢栄一(18401931)企業と国家目標、企業ニーズと個人倫理の関係を問うた。

  フレデリック・W・テイラー(18561915)労働作業を研究した。科学的管理法

  アンリ・ファヨール(仏18411925)企業組織に関する合理的アプローチ、職能原理。

  ヴァルター・ラーテナウ(独18671922)大企業が果たすべき貢献と責任を研究。

  オイゲン・シュマーレンバッハ(独18731955)学問分野「経営学」を開拓した。

  ヒューゴ・ミュンスターバーグ(18631955)マネジメントに行動科学を応用。

  ピエール・デュポン(18701954)、アルフレッド・スローン・ジュニア(GM18751966)が大企業の組織原理を考案した→分権制の原理

  ギルブレイス夫妻(米、フランク18681919、リリアン18781972)組織形態。

  メアリー・バーカー・フォレット(米18681933)、チェスター・バーナード(米18861961)意思決定プロセス。建前上の組織と内側からみた組織の関係。

  シリル・バート(英18831972)、エルトン・メイヨー(豪18801949)人間関係論。

  ジェームズ・マッキンゼー(米18891937)、リンドール・アーウィック(英18911983)事業方針や経営組織等の範囲まで広げたマネジメント・コンサルティングに取り組んだ。

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