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2011年6月

2011年6月27日 (月)

福島第一原発の循環冷却装置不具合も人災

福島第一原発の2号機では、循環冷却装置を導入して、汚染水を出し続ける冷却方法から、水を循環させて繰り返し冷却水として使うエコな方法に切り替えようとしています。これができれば事故処理は大きく進展することになるので、皆大きな期待を持って注目していました。

ところが、いざ本格稼働を始めようとすると、配管のミスだとが、弁の開閉ミスだとかが起こってなかなかうまくいきません。弁の開閉ミスにいたっては装置設置のときに開閉表示を逆につけてしまったのが原因というではありませんか。

どうしてこのようなミスが続くのでしょう。全てが初めての事なのでミスはつきものという言い訳は通りません。予測不可能だから試行錯誤を繰り返して最善の方法を少しずつ見出していくんだということであればいいでしょう。でも、これらのミスは予め決められている設置手順や取扱手順を間違えたという単純なケアレスミスです。

事は世界中が注目している重大事故なので、当事者は相当の緊張感をもって事に当たっていると思います。いい加減な気持ちではないと思いますので、取り組み姿勢の問題ではないでしょう。じゃあ何が問題なのでしょうか。

ひょっとしたら、一生懸命手順通りに注意しながら進めたいという気持ちがあっても、そこに能力がついていってないのではないでしょうか。その能力とは、手順書や取扱説明書通りに作業するという能力です。

よく考えてみると、手順書や取扱説明書通りに作業ができるという能力は、いくつかのサブ能力に分けられ、それらは相応の教育を受けていないと身につかないものだということが分かります。

1.   まず、言葉を理解する能力。

これは当然です。でもこれには、長い文章もストレスなく読みこなせるということも含まれています。もちろん私の文章のように、ただ意味もなく長いだけで、読んで損したと思わせてしまうようなものは文章側に問題がありますから、それは除外します。推理小説のようなものも除外します。

最近は、最初の一瞬で観客の心をつかむことができなければもう「帰れ、帰れ!」というお笑い芸人に要求するような事を平気で友達や同僚、あるいは家族にまで要求する雰囲気があります。また、わずか140文字で全てを表現しなければならない、Twitterが普及してきました。これらの習慣が長い文章を読みこなす力を削いでいるのではないでしょうか。

2.   なぜそうするのかという個別の作業の目的を追求する能力。

作業の目的を理解するとミスが少なくなります。先日、こんなことがありました。普段使っているビジネス鞄を手直ししてもらったときのことです。鞄の背中にはキャリアーバックの持ち手を通す隙間が開けられており、出張の時などはそこに持ち手を通してキャリアバックと一緒にころころ引けるようになっています。その隙間の下側の口にはファスナーがついていて、普段ファスナーを閉めておけば書類を入れる薄いポケットとしても機能します。

問題はそのファスナーの「つまみ」でした。ファスナーが外側から見えないように革の内側にあるために、そのつまみがぽっこりと外から見ても膨らんでいて、使っているうちにぽっこりが他の物に当たって革が痛み始めていたのです。

そこで、鞄屋さんに手直しの依頼です。ファスナーを開けたまま「つまみ」をはずしてください。当然不都合の内容を説明し、隙間はキャリアバックの持ち手に通すから開けたままにするように言い添えました。

しかし、出来上がってみるとファスナーを閉じたままつまみをとってある。店頭担当者から修理担当者に何故そうするのかという修理の目的が伝わっていなかったために、意図したとおりにならなかったのです。目的は、「通し隙間を開けたまま外革をいためないようにする」ということでした。修理人はその道のプロですから、途中で依頼内容が曖昧になっても、目的さえしっかり押さえておけば、きれいな仕事ができるはずです。逆にいくらプロでも目的を間違えると仕事の価値がゼロになってしまう。目的を理解するということは大切なことなのです。

3.   個別の目的を理解したうえで、それを頭の中で体系立てる能力。

個別の目的を理解していても、全体の構成を理解していなければ全体の目的を達成しえません。個別の作業にはそれぞれの目的がありますが、全体としてもそれらを統合した目的があります。全体の体系を知り、各作業の全体作業の中での位置付けを理解していれば、絶対に抑えなければならないポイントや、他の個別作業で補完できる場所などを知ることができます。なにも手抜き箇所を発見せよと言っているのではありません。実際の作業はいつも設計図通りに行くとは限りませんから、異常事態が起こったときでもそれを補う術を知っていると最終目的を達成しやすいということです。

また、大きな作業であれば、一人で全部処理してしまうのではなく、何人もの協力を得なければならないこともあるでしょう。そんなとき、各人の役割を適切に決めて段取り良く事を進めることができます。常に全体を俯瞰しながら作業を進めると、個別しか視野にない場合にくらべてミスの発生が少なくなります。

4.   作業能力。

これは、頭に描いたとおりに手足を動かすことができる能力です。

これらの能力は、普段のいろんな事を当り前にこなしていくことによって、少しずつ養われる当事者意識とか集中力といったものによって裏付けられるのだと思います。そして、普段のいろんなことを当たり前にこなすには、相応のしつけと教育が必要です。

しかし、最近は途中のごたごたを全部素っ飛ばして、すぐにでも手に入るものでなければ興味を示さないという人が増えているような気がします。そういう人は、いちいち手順書を読んでひとつひとつ確認しながら進めるなどというまだるっこしいことはせずに、ちょっと読んですぐに集中力を切らし、あとは一気に直感をたよりに終わらせてしまう。

そんな人が原発事故の処理関係者の中にいるんだとすると、今後も結構ややこしいことになるかもしれません

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2011年6月23日 (木)

解散総選挙なく菅首相に辞めてもらってもどうにもならない。本当の根本解決はあるか。

菅首相の退陣時期を巡って与野党間や与党内で攻防が続いていますが、解散総選挙ができる成算のないまま菅直人氏が退陣しても、また同じ民主党から政権担当者が出てくるのであればほとんど意味がないのではないかと思ってしまいます。

こんな中で、野党はいったい何を目的に騒いでいるのでしょう。この状況で退陣をと迫ってみたところで、上に書いたような事態しか招かないのであれば、何の得もないし、むしろ政局がらみで復興の足を引っ張っているという謗りを免れません。なんだか、一回でも多くTVに映りたいと、TVカメラの前でおどけたみっともない仕草をするお笑い芸能人のようです。

ちょっと前に、菅直人氏が退陣した後に首相になりそうなのは誰がという趣旨の記事を読みました。そこにはとても次回の先進国首脳会議に我が国の代表として送ることができるような面々は居ませんでした。その時に思ったのです。そうか、菅直人氏が退陣しても、同じ民主党から次の首相が出てくるのであれば結局また同じではないかと。

中には相応の力量を備え良識もある人が居るのかもしれませんが、かの集団を構成している議員の中には、小沢一郎氏がなんとかして数を確保しようと、大衆受けしそうな面々をたのんで集めた人たちが少なからず居るようです。その人たちも一票を投じるわけですから、その中から選び出されてくる代表は結局大衆受けするパフォーマンスの得意な人になってしまうのではないでしょうか。

現状において、政権担当者を輩出する人材母集団たる民主党が駄目なら、もう一度選挙してその現状を打開し、母集団の面々を変える方がいいのではないかと思います。勿論その間は政治的な空白期間となりますが、その時間的費用を国民が負担してでもそうする方がいいような気がします。「急がば回れ」ということわざもあります。

ならば、自民党など野党に戦略としてお勧めするのは、ちょっと荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、前回の不信任決議案をもう一度提出してみる作戦です。その時にこのように言い添えるわけです。「前回の否決は、菅直人氏が、本当はそうは思っていないのに『反対してくれたら退陣するから』と騙し、投票者を錯誤に陥れた結果であるから、その投票意思は取りし消しができるはずだ。」と。

そこで、解散総選挙に持ち込むわけです。

しかし、もうちょっとよく考えてみましょう。私は日頃から組織内で起こる問題を解決するために、単に表面を取り繕うような方法はとらず、できるだけ問題を引き起こす原因を、さらにその原因の原因まで掘り下げて元を断つよう心がけています。単なる対症療法ではまた将来同じことが起こり、本当にその問題を解決したことにはならないからです。

ここでも、本当に総選挙で、現状の問題が解決するのかどうかを考えてみる必要があります。もう一度復習してみると、問題は菅直人氏のような単なるパフォーマンス男が政権を担っている状況だから、それを打開するために菅氏には退陣してもらう。でも、退陣しても、今の民主党から人材を輩出する限り根本解決にはならないので、その人材母集団の面々を変える為にもう一度選挙をする。ここまではいいのですが、では選挙で解決するかというと、今の民主党の面々を選んだのが我々投票者であるのだから、投票者が同じならやっぱり同じ人を選んでしまうじゃないですか。

民主党に投票して裏切られたから投票方針を変えるので、前回とは違うと言う人がいるかもしれませんが、それでは変わったことにはなりません。自民党に裏切られたから比較的新しくて未だ正体の知れていない民主党に投票したのです。その民主党に裏切られたから今度はまた別の、例えば「みんなの党」に投票しようかというのでは我々は何も成長していません。

今のが駄目なら次の・・・・・では、何も考えていないのと同じ。

日本という社会を維持し、将来の日本のために尽くしてくれる人は本当にこの人でいいのかという確かな審査の眼を以て投票するように努力しなければなりません。そういう確かな審査の目を持つのは容易なことではありませんが、本気でこの国の政治を変えようとするなら、努力すべきです。努力しましょう。

そのためには、日々の世の中の動きに精通していなければなりませんが、他にも政治経済や法律に関する基礎知識、それを理解するための基礎理解力など多くの知見が必要です。そしてなによりも、そういった知見を身につけることが大切なことであると思うことがその大前提としてあるべきです。

そこまでいくと、問題は単に新たな知識を仕入れるということではなくて、物事への取り組み姿勢の問題ですから人間形成の段階、つまり義務教育の段階でやっておかなければならないことだと言えるでしょう。

結局、我が国の政治を改善しようとするなら、根本から立て直さなければならず、その為には国民の人間形成からやり直さないと駄目だということだと思います。それが成就するまでには数十年という長い時間が必要ですが、事がここまで来てしまっているのですからやむを得ません。

しかし、教育がこれほどまでに大切であるにもかかわらず、この話になると、子供手当やら何やらの対症療法的な話題に終止してしまい、教育の質の問題や学校の在り方等の問題が国防や外交と同じレベルで話し合われないのは実に残念です。

政治家のレベルはその国の国民のレベルと同じであるとよく言われます。我々が無能と批判する政治家は、われわれのレベルをそのまま映している鏡のようなもの。ならば、原点に立ち返って、我々国民を11人創り直さなおそうではないかという訳です。いかがでしょう?

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2011年6月16日 (木)

日銀の成長支援貸出制度は銀行が不甲斐無い証拠

日銀が、昨年新たに導入した成長支援貸出制度の融資枠をさらに5,000億円増加することを決定したとの記事がありました。この企画そのものは大変結構なことだと思います。しかし、それをどうして日銀がやるのでしょうか。

日銀は金融政策を担当していますが、産業育成を担当している訳ではありません。育成すべき産業を見極め、その成長を支援すべきだと決めるのは国会の仕事で、その実施要領を企画するのは政府の仕事です。そして、実際に融資による支援が必要であるという段になってはじめて、日銀が必要な流動性を市中に供給するという仕事を担うわけです。それなのに、日銀が勝手に育成すべき成長産業を決めるのは権限を超えた行為であると思います。なぜ誰もそれを咎めないのか不思議でなりません。

それよりもなによりも、成長できそうだが今は資金が必要な優良企業を探し出して支援するのは市中銀行の仕事ではないでしょうか。それを怠っているから、見るに見かねた日銀が、「じゃあ、俺が・・・。」としゃしゃり出てきたということなのかもしれません。もっとも、市中銀行が「羹に懲りて膾を吹く」ように、信用リスクにあまりにも過敏になり過ぎて、ジャブジャブある流動性を国債運用にしか使えないようにしてしまったのは、竹中平蔵はじめ政府の責任によるところも大きいとは思いますので、そこのところは少し市中銀行に同情します。

それにしても、どうして、市中銀行は、上に書いたような本来の仕事を怠っているのでしょう。その理由は2つあると思います。以下に書きます。

1.  能力がなくなったから。

昔、銀行にはしっかりした審査部門というのがあって、取引先が持参する財務資料をよく分析し、収益力はどうか、資産や負債のバランスは安定しているか、効率はどうかなどといった事柄を自分の目で見極めて、最終的にその企業には借りたお金を返済する能力があるかどうかを判断する力がありました。

その財務資料が悪意によって取り繕うような内容になっていても、この数字とあの数字を見比べたり、素人には気づかない傾向分析や差異分析などをとおして、ときには巧みに仕込まれた粉飾など見抜いたものです。

昔は良かった、今は駄目だとノスタルジーに浸っている訳ではありません。事実現在では、そんな分析能力を失っているばかりか竹中平蔵に余計な貸倒引当金を大量に積み増しさせられて、自信も喪失しているのです。その原因もはっきりしています。それは、2つあります。

     ある大手銀行が始めた、スコアリング審査という手法です。

スコアリング審査とは、主として財務内容を分析する技法を計算の中に織り込んでそのアンケートに応えるように、そこに記入していくと最後にいつの間にか融資の可否が審査されるという魔法の紙です。

主として、小口融資に使われますが、融資係りは高度な分析手法を知らなくても審査できるので、勉強しなくなりました。

     もうひとつは、リスクを右から左に流す金融手法が流行ったこと。

どちらかというと金融全体に言えることですが、証券化商品などのように、リスクのある与信素材を集めて、ランク分けし、ランク毎に小分けした与信リスクを証券として販売することで、その証券を買う投資家とその資金を必要としている資金需要家とを、ろくに審査もせずに橋渡しする方法がいろんな形で流行り、普及しました。

リスクは投資家が自己責任でとってくれるので自分でリスクをとる必要のない金融機関はろくに審査もしません。するとしても、リスクを分類するだけです。

以上により、銀行はすっかり審査分析する能力をなくしてしまいました。

2.  優良企業を評価する方法が変わったから。

上に書いた審査では、企業の全部を評価することはできません。何故なら、従来の審査は主として財務資料を基にしており、その財務資料は現在と過去の記録でしかないからです。融資先は、その資金を活用して事業を起こしたり、進めたりしながら利益を得、その利益の中から返済していくわけですから、過去や現在より、将来の話が中心になります。

だから、過去と現在を説明するだけの財務資料をいくら分析しても、その融資先がどのように資金を活用するのか、活用する事業の実現可能性はどうなのかなどわかるはずもないのです。

もちろん、過去と現在の傾向値から将来を予測する方法はあります。しかし、それは過去の延長線上をたどっていく作業に過ぎません。これから起こそうとする事業が延長線上にない場合はその分析はなんの役にも立ちません。

もっというと、冒頭の日銀の成長産業向け融資ということでは、それらの事業は過去の延長線上にないケースがほとんどであるはずです。

では、その場合は何を分析して評価すれば良いのでしょうか。それは、その融資先がもっている知的資産です。

知的資産の中には、事業のアイディアやそれを担う力をもった人材や、組織として全員が一体となってその事業に取り組む組織力や、それを支える周囲の関係者などがあります。それらは貸借対照表や損益計算書やキャッシュフロー計算書などでは表現できないものばかりです。

そして、成長の可能性は、今貸借対照表に載っている資産より、これらの知的資産に秘められているケースが多いのです。

もちろん、それらの高価な知的資産があれば、それは年月を経て結果として財務諸表に表れるはずだという理屈も成り立ちます。しかし、結果としての財務諸表を分析するたけでは、十分とは言えません。併せて、そういう結果を生み出す、企業の「推進力」とも言うべき知的資産もそれ以上に分析する必要があります。

優良企業を見出すための企業の評価の方法が従来の財務分析を中心とするする方法から、財務分析に加えて、これらの知的資産を評価する方法に変わってきたのです。しかし残念ながら、銀行はその手法を知りません。

昔の銀行はお金を貸したくても、一方の預かる預金の量が限られていたので、あまり貸すことができませんでした。今は、幸せにもジャブジャブの資金があるのに、それを貸さずにせっせと国債を買っている。もったいないことです。

早く、財務諸表を分析する能力を取り戻し、企業の隠れた力である、知的資産を評価するノウハウを身につけて、正しく成長企業を見出し、これらを支援してほしいものです。

自分の本来の仕事を日銀に奪われて何も言えないとはあまりにも不甲斐無い。

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2011年6月13日 (月)

東日本大震災、復旧か復興か、人々の思いと全体最適。

TVでは、連日東日本大震災の被災地での復旧復興の動きや活動の様子が報道されています。

そんなTVのドキュメンタリー番組の中に、被災したある地域の地方公共団体が被災をむしろチャンスと捉えて、以前よりももっと住み良い町づくりをしようと、様々な計画を検討している様子が報道されているものがありました。その計画とは、例えば規模の小さい漁港を集約して高機能高効率の漁港を造るとか、地域を開放してもっと広く資本や人材が集まってくるようにするとかということです。

非常に前向きで多くの支持が得られそうですが、意外にもこの番組に出てきた地域の方々の意見は様々で、市役所担当者はまとめるのに大変苦労していました。今回はこれについて少し考えてみます。

まず、様々な意見とは大きく括ると下の2つになるようです。

一つは、これらの復興計画に賛成する意見で、この機会に以前より良い地域を造って、従来懸案だった合理化や効率化を一気に実現したいという改革推進派。もう一つは、いやそんなところまで進めずとも以前の暮らしを取り戻しさえすればそれで十分だという現状維持意見です。

ちょっと見には改革推進意見の方が格好良くて、明るく活発で希望に胸がふくらむ印象を受け、一方の現状維持意見には「なんだ、お前ヤル気あるのか。」という批判も出できそうな感じです。知事も「復旧より復興だ。」と声高らかに宣言し、被災住民の士気を盛り上げようと頑張っていて、その姿はりりしい。私も、診断士の立場からは是非この機会により合理的な地域の仕組みを構築して全国や世界の模範となってほしいと思います。

しかし、実際に進めようとすると、地域の意見は二分され、復旧で十分だという人も相当多く簡単にはまとまりそうにありません。もう少し双方の気持ちに踏み込んでみましょう。

現状維持派はさらにこうも言っています。地域漁業を開放して、全国から大手資本が入りこみ、見知らぬ人も来るようになると自分たちの生活が脅かされそうで不安だというのです。一方、改革推進派からは、自分たちの力ではもはや復旧は困難であるから、多くの人や多額の資本に登場してもらった方が地域全体のためにはいいのではないかと、自力復旧は半ばあきらめ、むしろ自分たちの時代はもう終わったのだと思っているようなニュアンスが伝わってきました。

確かに、現状維持派は不甲斐ないと言われるかもしれません。しかし合理化効率化を進めて成長し、あくなき理想を追求するというのは、ストレスも高いのです。ストレスが溜まって寿命を縮めるかもしれません。

それより、多少非効率でも今までの仲間と、慣れてこなれた方法で生活し、わいわいとにぎやかに過ごして、心を豊かにする方が幸せなのです。現状維持派はそんな平穏な生活を自分たちの力で取り戻すことが必ずできるのだと信じているのだと思います。

このようにみると、ちょっと見には明るく活発に見えた改革推進意見が、むしろ暗い残念な空気が感じられるのです。どうやら、改革推進意見には活発で前向きな動機と、暗くあきらめの動機の2派があるようです。そして活発な前向きな動機は、県庁や市役所などに多いようです。

とかく為政者は、自分たちが地域の設計をしいるのだからとの気負いがあり、個別の生活を捨象して全体に括りつけようという傾向があるのではないでしょうか。全体最適という言葉があります。個別の事はそれぞれ素晴らしくても、それが突出して全体とのバランスがとれていなければ、全体として最適な状態とは言えないということで、全体最適を優先してこそ個別の意義があるということになります。

当然ですが、市役所は「市」全体を良くしようとします。しかし、「市」は「県」から見ると部分であり、その「県」もまた「国」から見ると部分になってしまいます。全体は常に部分であり、部分は常に全体でもある。そんな関係の中では、全体最適という言葉がなんだか虚しく感じられませんか。

ただ、どの全体も分割していくと最後は個人に行きつく。つまりどの全体も個人が形成しているということをいつも念頭に置いておかなければなりません。

普段の生活に豊かさを見出してきた人たち、移ろう無常の世を受け入れて静かに退く人たち、過去から学んで実践しよう敢えてストレスを好む人たち。それぞれの個別が自立しながら生き、協調していく中から長時間かけて一人ひとりの幸せを造っていくことも大切なのかなあと思います。

全体か個人かという問題は、その時々によって結論は異なりますが、どの場合でも、この議論の切り口は忘れてはならないということではないでしょうか。

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2011年6月 3日 (金)

内閣不信任案否決は管直人氏の詐欺、鳩山氏も詰めが甘い。

6月2日午後、衆議院で内閣不信任案が否決されました。私は夕刻になって、インターネットのニュースを見に行ってそれを知りましたが、なんでこんなに大差で否決されたのだろうと不思議に思いました。その後、鳩山氏と菅氏の間で退陣する旨の合意が事前にあったというニュースを見て、あ~そうかと。

しかし、否決された後になって、菅氏は目途とは年明けのことだと言いだし、鳩山氏はそれは嘘だと批難しました。

今、退陣とか続投とか言っている場合かという議論は置いておいて、この事についてだけ一言申し上げますと、状況からみて、これは菅氏の詐欺行為だと思います。そして一方の鳩山氏は詰めが実に甘いというほかありません。

まず、菅氏についてですが、不信任案が提出されて、おおかたの世論も菅首相は駄目と言っている中でのぎりぎりの交渉なのですから、つきつけられた書面は仮に辞任の二文字がなかったとして退陣の条件であることは明らかなはずです。それを条件ではないとか、目途とは落ち着くことだとか解釈の余地を残しておき、「不信任案否決」という自分の利益が確定してから、言いだすのはあまりにも卑怯な手口としかいいようがありません。

そんな彼の対応は、「自分にはやらねばならぬことがある。それを周囲や愚かな国民は理解していない。今は卑怯者の謗りを受けても、いつか歴史が必ず自分を評価してくれるはずだ。」という思い上がりが見えてきそうです。

菅氏が総理大臣として無能か有能か本当のところはわかりません。マスメディアを通じた記事でしか知りませんから。しかし、この事に関する限り、少なくとも好きにはなれません。単なるパフォーマンス男にしか見えないのです。

昔、管氏は市川房江氏に師事していました。管氏は市川氏の信頼する右腕だったはずですが、その市川房江氏が管直人氏を裏切り者と呼んだそうです。信頼された市川氏を裏切ったからですが、あの市川房江氏をして裏切り者と呼ばせるほどですから、根っからの詐欺師だったのかもしれません。

さて、一方の鳩山氏はどうかというと、これは詰めが甘いとしかいいようがありません。新聞には、例の書面が載っていましたが、読むと「課題がたくさんあるから頑張ってくれ。」と励ましているように読めます。辞めてくれとはとても読めません。退陣については、口頭で話をつけ、その条件として出したということですが、条件にも見えないのです。鳩山氏としては、仮にも総理大臣である菅氏に対して書面で退陣や辞任が読み取れるようなものを出すのははばかれたのでしょうか。辞任や退陣の文字をさけたいとしても、例えば「別途合意した内容の条件として・・・」とか、「期限として・・・」とか、いろいろあったと思います。

相手が拡大解釈する余地がたくさんあるのを承知しながら、自分は自分の役割をきちんと果たしたと言おうとしても、自分で自分にうそをついているようなものです。なんだか普天間基地の問題への対処方法を思い出しませんか。

結局、菅氏にしても鳩山氏にしてもこんなに議論が残る形で行われた「不信任案の採決」ははたして有効なのでしょうか。民法でも、詐欺による意思表示は取り消されうるようです。

【参考~WIKIPEDIAから】

他人を欺罔(ぎもう:人をあざむき、だますこと)をして錯誤に陥れること。詐欺による意思表示は、その意思の形成過程に瑕疵があるため取り消し得るものとされる(民法第96条)。

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