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2011年10月17日 (月)

東北被災地、復興資金の全額を国に要求するというのはいかがなものか

東日本大震災の被災地である宮城県のとある町の町長が、「復興に必要な資金は、通常の予算の55倍にもなる。」として、その資金の全額を国が負担すべきとの要求をしました。自分の町ではいささかも負担せず、全ての負担責任は国にあると言っているようです。

しかし、果たしてそうでしょうか。それは正しい要求で、当然の権利なのでしょうか。そして国家の当然の義務なのでしょうか。ちょっと違うような気がします。なぜなら、まさかの事態に備えて、普段からなんらかの蓄えやら準備やらをしておくのが、普通の組織であり、まずその備えを使った上で、支援を依頼するので、普通はまるごと他人任せということにはならないと思うからです。

この町長の発言の背景として考えられるのは、下記の2つの場合です。

1.  普段からなんの備えもしていなかった。

これは、地方公共団体という組織としては、組織の体を成しておらず、市政を誤っていると言わざるをえません。どんな中小企業だって、まさかの事態に備えてなんらかの蓄えをしているものです。

2.  普段から備えていたが、次の「まさかの事態」に備えて、その蓄えはとっておきたい。

まさかの事態のための備えを次の「まさか」に備えるなら、未来永劫、その備えを活かす場面はおとずれません。そういうのは備えとは言わないので、これもあり得ません。

いずれの場合も、共通しているのは、普通の組織では考えられないということと、泣き叫んでいれば親がなんとかしてくれるという甘えです。厳しい言い方に聞こえるかもしれませんが、全部自分でやれと言っているわけではありません。被災地を支援するのは同じ人間として当然の義務だと思っていますし、実際に多額の義捐金も出しました。

しかし、それはまず自分で自分を支援するという主体的な意識があるということが前提だということです。自分は被災した弱者であるから、いささかも負担するつもりはないと、胸をはって言われると、それはちょっと違うのではないかという気持ちになります。

「助ける」とか「助け合う」、「手を差し伸べる」ということはとても美しく、日本人の美徳でもありますが、それが当然であるということになって、権利と化してしまうと逆に問題です。弱者は弱いから助けが必要なのですが、助けてもらうという意識が権利意識となって、その権利ゆえに弱い立場が強い立場に変化し、今まで手を差し伸べていた人達がその圧力に屈してしまうという現象が、今回の被災地以外の日本中のあちこちで起こっているような気がします。

そして、その一番大きな例が現代日本の国民と国家の関係ではないかと疑っています。国民は弱い、国家は強い。国家の運営を代表する政府が、弱い国民にゆすられると、どうしようもなく弱腰になってしまう。だから、財政赤字がどんどん膨張し、破綻しそうになってもまだ、ポピュリズムから脱却できない。

ケビン・メア氏が沖縄住民はゆすりの名人と発言して職を追われましたが、沖縄住民だけではない。日本国民全体がそうなっているような気がします。

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