経営組織・組織運営

2015年12月 3日 (木)

著書

「為替リスク管1017385_664978446861465_211214523_211012623_1064994526859853_684864107理の教科書」中央経済社(2015.02.20)

~為替相場の変動に振り回されず本業に専念するための考え方と対応法

「事業再生の現場プロセス」中央経済社 (共著)(2013.06.15)

~知的資産経営の活かした、事業再生の手法と事例集

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2014年4月10日 (木)

STAP細胞と小保方氏の研究姿勢、一連の報道姿勢、世論。

 

小保方氏の記者会見に関して、街の人たちのインタビューを聞きました。みな一端の自然科学者になって評論していましたが、私は研究者の厳しい世界を知ってただおののくだけです。

 

 

 

論文発表当初は、みな若い女性研究者の努力をたたえました。特に女性の社会進出好事例としてのニュースバリューがあったからメディアもそれにとびついた。一方の女性研究者も、社会的弱者の権利主張を批判すると「上から目線」という逆非難を恐れるという風潮を巧みに利用した、或いは女性の社会進出を応援する行為は「罪なきメッセージ」として常にポジティブに捉えられるという風潮を巧みに利用した面があるのかもしれません。ないかもしれません。それは本人でなければわからないし、本人の道徳心を頼むしかないのだと思います。

 

 

 

さて、一日たって、記者会見に対する評価がかたまりつつあるのが見えてくると、今度は安心して評論できる。その評論にメディアも安心してのっかる。この賤しさは一体どうしたものでしょうか。私は自然科学者ではないから、そのルールはよく知りません。でも、見ているとあまりにも可哀そうで、いたたまれない。それも一面しか見ていないための感情だとは思いますが・・・。女性が必ず死ぬオペラばっかり書いた、プッチーニだったら、これをどんな歌劇に仕立てたでしょう。そんなことを思いました。

 

 

 

昔、科学者のイメージは、たった一人で部屋に閉じこもりもくもくと研究を重ねる姿でした。しかし、時代は変わって、研究は大掛かりになり、個人レースではなくなった。スイスのセルンにしても建設が大幅に遅れている核融合の研究にしても、多くの研究者が力を合わせなければ、なかなか研究成果は得られません。

 

 

だからこそ、個々の研究を統合する経営や組織運営力も高度化していかなればならないはずです。しかしそうなっていなかった。組織のトップが末端まで管理するのは不可能だと言う人もいますが、実際はトップの姿勢が結構組織の末端まで届き浸透しているものです。自分の思いが末端まで届いていないと嘆く世の経営者は多いが、実はそうではない、その姿が末端まで届いた結果の姿なのです。理化学研究所の取り仕切り者の責任は重大だと思います。

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2013年8月14日 (水)

「事業再生の現場プロセス」は事業再生の本質論

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本を出版しました。共著で中村良一編著、著者~坂野直人、金森亨、木村貴司、柳澤貴、佐々木陽洋三郎。「事業再生の現場プロセス」2013.6.20.中央経済社。


知識や仕組みなど財務以外の見えない資産(知的資産)が事業再生の駆動力になるという内容です。企業の価値は財務諸表だけで測ることができない。「活きる資金を融資する」ため、企業の経営は何に依って立つべきなのかを真剣に見極めようとする中小企業金融の担い手には是非読んでもらいたいと思います。

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2013年2月 2日 (土)

女子柔道の園田監督、体罰は指導に効果を発揮するか

柔道の園田監督は、「選手にもうひと踏ん張りしてほしいと思った」と。ひと踏ん張りするには暴力が必要と思っている。つまり指導には暴力が必要であると思っている。ザッケローニ監督は「指導には暴力は必要ない」と。

報道では「体罰は悪」として扱われているが、現場では「やっぱりスパルタ的指導は選手の強化に効果がある」と思っている人が今でも多いのではないだろうか。

これに対し、「体罰が強化に効果をもたらすか否か」が明らかにされるならどうだろう。例えば、先のロンドンオリンピックの日本競泳チームの指導はどうであったか。過去の強かった選手の指導方法はどうであったかなど比較していると良い。それによって体罰が逆に選手を委縮させてチームを弱くしていたことが明らかになれば、園田監督のように、選手に強くなって欲しいと心から願う監督なら、即刻指導内容から体罰を排除するのではないだろうか。

それでも、暴力が続くなら、それは選手のことを思っているのではなく、単に自分の不満のはけ口であるということになる。その時ははっきりと断罪できる。

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2012年2月 6日 (月)

Facebook(フェイスブック)、偽善者ザッカーバーグ氏の報酬1ドル申し出

Facebook(フェイスブック)が上場するニュースに続いて、フェイスブックの最高経営責任者である、マーク・ザッカーバーグ氏が自分の報酬を1ドルとするよう申し出たとの報道がありました。

なんでわざわざ1ドルにする必要があるのか、そしてそれをわざわざ報道する必要があるのか分かりません。「自分には欲がないから、1ドルしか要求しない。自分のことより会社のことを大切に思っているし、自分の分け前はそこに働く従業員に分けてやって欲しい。」という意味なのでしょうか。

[寄付は多額報酬の贖罪?]

  • 昔、クォンタム・ファンドを立ち上げた、ヘッジファンド・マネジャーのジョージ・ソロス氏は、ファンドで巨額の利益を得たが、その一方で利益の多くを出身地ハンガリーなどへ寄付していたという事を指して、「ジョージ・ソロス氏が多額の寄付をするのは、資金力にものを言わせる投機行為でたんまり儲かったことへの贖罪である。」と評した記事をどこかで読んだことがあります。貧乏人のひがみだけではないようです。

[桁はずれの報酬は自由の証?]

  • アメリカでは、成功者は桁はずれの報酬を手にすることができるが、それを貧乏人が「不公正だ」と言って批難することはない。なぜなら、いつか自分もそうなるチャンスがあると信じているからだ、ということを聞いた事があります。家柄とか身分とかという目に見えない障壁があって、努力しても報われない硬直した社会と違って、アメリカは、頑張れば報われるという自由があるということなのでしょう。もっとも、NYのデモ集会を見ると最近はそうでもなさそう。

[寄付は施し]

  • 勝者は多額の報酬を手にするが、勝者が敗者に寄付することで、社会全体の貧富の差のバランスを保っている・・・というのが、アメリカの社会であるようです。しかし、敗者は施しを受けても幸せにはなれないとも言えます。山田昌宏氏は、「希望格差社会」で、施しを受けて、その施しによって経済的に豊かな生活を得ても、決して幸せには感じない。乞食のように施しを受けることでかえって敗北感が増し、希望が持てなくなって決定的な格差を感じるものだとおっしゃっています。

[アメリカの税率、給与は1ドルがお得]

  • Facebookのザッカーバーグ氏は他のアメリカ人がやっているように多額の寄付をするようになるのでしょうか。それとも、自分の報酬は1ドルだからその時点で既に会社や社会に寄付していると言いたいのでしょうか。ちょっと調べてみました。

  • 米国では、所得税は累進課税になっていて、独身者の所得税率は、$8,375以下は10%ですが、$373,650を超えると35%です。去年148万の報酬をもらっているザッカーバーグ氏の場合は当然35%です。

  • 一方、受取配当金にかかる税率は、15%の分離課税です。

  • ということは、彼が仮に100万ドルの報酬をもらう場合、それが給与所得なら35万ドルの税金を払わなければならないが、配当金でもらえば10万ドルで済むということになるわけです。だったら、ザッカーバーグ氏でなくても、「俺は、給与は要らない。その分を配当金でくれ。」と言いたくなるでしょうね。「1ドル申し出」は偽善に見えてしょうがないのです。これも貧乏人のひがみですね。でも、彼の大学生活のエピソードもそういうイメージ形成に寄与しています。(ところで、iPhoneのスティーブ・ジョブズ氏も自分の報酬を1ドルとしていたそうですが、彼の場合は偽善者の匂いがあまりしない。人柄でしょうか。)

[ザッカーバーグ氏のエピソード]

  1. Wikipediaから引用 :ハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグはハッキング し得た女子学生の身分証明写真をインターネット上に公開し、公開した女子学生の顔を比べて勝ち抜き投票させる「フェイスマッシュ」というゲームを考案した。これは大学内で問題になり、ザッカーバーグはハーバード大学の半年間の保護観察処分を受けるに至った。
  2. 2010年アメリカ映画『ソーシャル・ネットワーク』(原題: The Social Network~マーク・ザッカーバーグらを描いたドラマ映画)より :学生時代ザッカーバークは、ハーバード学生ウィンクルボス兄弟からコミュニティ・サイト立上げの相談を受けたが、逆にそのアイディアを盗用して勝手にFacebookを立ち上げた。

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2010年10月11日 (月)

新しい方法を見出しても、以前の良い方法を忘れないように。科学的管理法は今も生きる。

何かをする時に、今までとは違った良い方法を思いついて、その方法を使うようになったら、今までの方法は忘れてしまうものですね。「何かをする」とは、仕事でも、普段の生活でも何でも当てはまります。

もちろん、従来の方法に比べて、より良い方法として思いついたのだから、より悪い方法にいつまでも固執している必要は全くないのです。今回思いついた良い方法に代わる、さらに良い方法を将来思いついたら、今回の方法も捨てられる運命です。

しかし、よく考えると、それは従来の方法と今回思いついた方法が完全に代替可能な場合だけで、少しでも補完的要素が両者間にあるなら、それは捨てるにはもったいないでしょう。

「完全に代替可能」とは、従来の方法で実現させていた事が、今回思いついた方法でも全く同じ事が実現できる場合です。

それに対して、補完的な関係とはどういうことでしょう。わかりやすいのは、従来の方法で実現していた事の一部しか、新しい方法では実現できない場合です。その場合は、従来の方法と新しい方法の両方を使うことになります。

例えば、木材を目的の形に切る場合、鋸でぎ~こぎ~こ切る従来の方法に比べ、切り始めてから半分まで行った時に向きを変えて反対側から切った方が速く切ることができる事を思いついたとします。

鋸で切るという従来の方法に、途中から向きを変えるという別の方法を合わせてやらないと木材を切ることはできないから、両者は相互に補完的です。

この例は、従来の方法を捨てることができない、あまりにも歴然とした例なので、議論の余地は全くありません。

しかし、気がつかないけど、互いに補完的な方法を、従来の古い方法だからといって安易に捨ててしまっていることが他にないでしょうか。

有名な人事マネジメントの古典、「科学的管理法」を読みました。有賀裕子さんによる新しい翻訳が出版されたのです。訳者がまえがきで、「科学的管理法には、このタイトルが原因なのか、何かと誤解がつきまとう。その最たるものが『人間を機械のごとく扱っている』というものでだろう。」と書いているように、1911年にこの本が書かれて以降、これがいかにも偏った理論であるかのような評価のもと、修正理論が次から次と発表されました。

例えば、テイラーには全体的管理の視点が欠けていたとして、管理過程論を打ち出したファヨール。メイヨーやレスリスバーガーは、人間を機械として扱っているところがこの理論の限界であるとかなんとかいって、人間関係論を打ち出しました。

その人間関係論についても、良好な人間関係が仕事の効率性を保証するものではないとの指摘にさらされています。

これらは経営管理の研究の分野ですが、では、一番最近の理論が一番優れた方法なのかというと、必ずしもそうではありません。

テイラーは、あまりにも非効率で労使ともに不幸になっている状況を見るに見かねて、なんとかその状況を救いたいとの思いで科学的管理法を主張しました。そういう状況は、現代のわれわれでも時々直面するものです。

そんな状況に対しては、メイヨーやファヨールの管理法ではなく、ましてやマズローの欲求の最終段階を議論することでもない。まずは労使双方がより合理的な方法を発見し、それを上司のマネッジのもとで実現してみる必要があります。

現代の企業経営は、実にいろんな問題を複合的にかかえています。また、企業の成長段階によりそれぞれが直面している問題も様々でしょう。企業ごとに状況が異なるし、企業内でも異なる状況を同時に抱えていることもあります。

我々は、これらの理論の古い新しいを単純な切り口で評価することなく、その全部を複合的かつ総合的に活用していく術を学ばなければりません。

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2010年7月 3日 (土)

文書の保管やファイリングでやってはならないこと2つ

ファイリングができる人は仕事もよくできると言われます。ファイリングがしっかりしている会社は業績もいい。いいファイリングをする為に、やってはならないことを2つ揚げます。

1.私蔵すること

会社の文書は絶対私蔵してはなりません。私蔵とは、他の人がアクセスできない、又はしにくい場所へ保管することを指します。自分の家に持ち帰ることはもちろん、自分の机の中に保管することも含みます。

書類やファイルを取り出すときに、他人の机の引き出しを勝手には開けにくい。ましてや、部長の留守中に、営業担当者が勝手に引き出しを開けることはしないでしょう。そんなこと俺は気にしない、という担当者が居たら、その人は家庭での躾ができていないと言わざるを得ない。そんな人は会社でも行儀悪く、そんな会社はファイリング以前の問題です。

他の人がアクセスしにくい場所とは、占有領域という意味もあります。だから、ウォールキャビネットの中に、自分専用の棚を作って、そこに保管するというのも私蔵にあたります。

なぜ、私蔵してはいけないのか。私蔵された文書は会社の為に使われなくなるからです。会社とは組織であり、組織とは、同じ目的を持って共同で事にあたる2人以上の人の集まりを指します。2人以上の人が同じ目的でことにあたる以上、使う文書も共有されていなければならない。それなのに、そこにアクセスできない、又はしにくいでは困るということです。当たり前のことですね。

私蔵していい文書もあります。それは、新たな仕事を先輩から教わったときに書いた自習メモや、当面の担当業務の参照書類として、手元におきたいルールやマニュアルのコピーなど。コピーは原本が必ず公のファイルとして保管されているから問題ありません。

また、仕事が一人完結型で、社員一人一人が自立し、それが分散しているが協調できている会社の場合は、文書の全部が私蔵されていても、問題ないのかもしれません。しかし、そんな会社は存在する可能性はあるが稀でしょう。

2.秩序なくしまうこと

よく大切なものをしまった場所を忘れるという人が居ますね。大切だから他からアクセスされにくい場所にしまうのだが、アクセスされにくい場所だから余計思い出せないということもあります。

大切なものに限らず、物は後で使うだろうと思うから、しまうという行為があるのだと考えると、しまう場所もよくよく考えないと、しまった意味もなくなります。「しまった!」ということでしょうか。

こういう人は、しまう物が増えてくると、大変なことになります。あっちにしまったり、こっちにしまったりと、あちこち物を秩序なく分散してしまってはいけません。

ではどうすればよいか。同類の、又は関連する文書は同じ場所にしまうことです。違う場所にしまう場合は、どこに行けばその同類が、又は関連する文書があるかを書いたメモをそこに入れておくことです。そうすれば、目的の物の性質から、どの同類同士をしまった場所かが分かれば、その場所に行って簡単に探し出すことができます。

同類同士を集める分類の体系があれば、便利です。

ここで、自分のPCのMy Documentsを開いてみてほしい。同じ階層に数え切れないほどのサブフォルダーが並んではいないでしょうか。以前しまったサブフォルダーを探すとき、上から順番にひとつひとつのサブフォルダー名を見ていくことになりますが、数え切れないほどのサブフォルダーがあると、相当苦労しますね。

しかも、そういう人は、ようやく見つけたサブフォルダーを開いても、そこにはまた同じ階層に多数のファイルがあって、そこでも苦労します。また、こういう人は、新たにファイルを作ったら、それをしまうべきサブフォルダーが既にあるにもかかわらず、それが簡単に目に留まらないものだから、わざわざ別のサブフォルダーを作ってしまいがちです。ますます分らなくなります。

では、どうするか。上記のように、同類を集めるといい。同類のフォルダーは上の方に、別の種類の同類ファルダーは下の方に、また別の種類の同類フォルダーは、中くらいの場所に・・・と集めておくとよいでしょう。でも、そうなると、ただた集めるだけではなく、それらを、代表させた名前のフォルダーを作って同類を全部そこへしまいたくなるでしょう。そのフォルダーは一階上の階層になります。そうしているうちに、一階上のフォルダーも数え切れないくらい増えてきます。そうしたら、またその上の階層に同類フォルダーを括ったフォルダーを作ります。三階建て、四階建て、五階建てと階層は高くなります。もっとも、My Documentsはそのフォルダーが最上階層ですから、階層を増やす場合は地下に増やしていくことになりますが。

PCのフォルダーではなく、実際のファイルの場合は、My Documentsのようなファイリング体系図を作り、それに対応させて書棚に番地をふる。そんな管理が必要です。

私蔵は情報を社内で共有できなくなるからやってはいけない。秩序なくしまうと、情報が活用されずに死んでしまうから、これもやってはいけない。ということです。

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2010年5月29日 (土)

大相撲溜席の入場整理券と経営組織

牢屋に居る親分が、テレビに映った子分の元気な姿を見て、感涙にむせぶ情景を思い浮かべてみてください。昔流行ったやくざ映画のシーンにありそうですね。

昨年7月の大相撲名古屋場所中に、山口組系暴力団の幹部が土俵下の溜席にある維持員席で観戦していた問題で、この席の入場整理券を手配した現役の親方が、日本相撲協会から罰せられました。暴力団を町から追放するためには、全員が一致協力してこれに当たらなければなりません。一部に妥協する者が現れると、暴力団はすぐにそれに付け込んで、たちまち協力体制が崩れてしまうから、今回のように暴力団に渡るとは思わなかったなどという言い訳は通用しません。当然の罰だと思います。

しかし、何故そんなことをしたのかという理由を聞いた時、僕は別の意味で今回の事件に興味を持ちました。暴力団幹部は、刑務所では相撲と高校野球を見ることが義務付けられていることに注目し、テレビに映りやすい観客席に居れば、刑務所に収監されている親分がテレビに映る自分たちを見つけてくれるかもしれないと思ったということです。

それは、ロケ中の有名人の後ろで、自分もテレビに映ろうと、しきりに手を振っている子供なんかとは違う。「ねえねえ!私昨日テレビに映ったの!見た?見た?ねえ、見たでしょ?」

その暴力団幹部は、刑務所に居る親分はきっと自分たち子分のことを心配しているに違いないと思ったのでしょう。だから、親分を心配させちゃいけねえ。ここは是非自分たちの元気な姿を見せて安心してもらおうじゃねえか。と誰かが言って、そうだそうだということになったのでしょう。

子分は親分が自分たちのことを心配しているはずだと信じている。そして親分のために何かして差し上げたいという気持ちで子分たちが一丸となっている。なんだかけなげで美しい。

日本的経営が幅を利かせていた古き良き時代の企業組織もこうだったのではないでしょうか。あるいは、殿様と家臣の関係も。トップの命令がミラミッド型の組織形態を通して一気に家臣に伝わると、皆一丸となって団結しトップの為に命を賭して頑張る。そんな組織は、一定の条件を満たせば、存分に組織力を発揮して、非常に強くなります。

ただ、その一定の条件というのが結構くせものです。少なくとも言えるのは、次の2つでしょうね。

まず、トップが命令を出すこと。残念がら日本的経営では組織の意思決定が主にボトムアップでなされ、トップはよきに計らえ的に君臨しているだけという場合が多いようです。

2つめは、正しい命令を出すこと。日本に限らず、苦労して叩き上げた経営者の中には理論を軽んじる傾向があります。経験は説得力があって強いが、実に狭いのです。だから理論を軽んじる経営者は視野が狭く、正しい命令を出すことがなかなかできません。

結局、強い体質を持ちながら、この2つの条件が満たされないために、現実にはなかなか強くなれない。うまくできていますね。

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2010年3月 5日 (金)

情報の使い方に2つのパターンあり?

情報の活用方法には2つのパターンがありそうです。

ひとつは、エクスプローラー方式に分類して整理蓄積した完結した体系を作っておき、必要な時に大項目から小項目へ絞り込むように目的の情報にアクセスする方法。

で、もうひとつは、情報のひとつひとつにフラッグを立てておき、必要な時にそのフラッグで検索することで直線的に目的の情報にアクセスする方法。特に、この情報はカテゴリーAに属すると同時にカテゴリーBにも属するという場合は、エクスプローラー方式では整理できません。

あるITベンダーの方によれば、若年層ほど検索による直線的な情報アクセス方法を好むとのことです。別に裏付ける統計があるわけではないけど、そうかもしれないなと思います。

前者の方法は、経営企画など課題を形成したり問題点を明らかにするための創造的活用に適し、後者は課題(または問題)が明らかな場合に対症療法的に解決方法を見出す時に有効なのかなあなんて考えています。

その理由は・・・・・うまく言えません。

僕はどちらかというと前者が好きで、雲の中から探り出す方法はあまり得意ではありません。本を読むときも、まず目次を頭に入れてからじゃないと読み始められません。なんか関係あるの?と不思議に思われるかもしれませんね。確かに論理が飛躍していますが、僕の頭のなかではちゃんとつながっていて飛躍していません。

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